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東京高等裁判所 昭和29年(う)440号 判決

控訴人 被告人 山田善二郎 弁護人 岡田久恵

西村幸晴 弁護人 宇野要三郎 竹内金太郎

東京地方検察庁検事正代理検事 田中万一

検察官 池田貞二

主文

検察官の無罪部分に対する控訴を棄却する。

原判決中有罪の部分を破棄する。

被告人山田善二郎を懲役十月及び罰金二万円に、

被告人西村幸晴を罰金二万円に処する。

右各罰金を完納することができないときは、いずれも金五百円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置する。

被告人山田善二郎に対し、この裁判確定の日から三年間右懲役刑の執行を猶了する。

訴訟費用中原審の証人浅川明治、同宮田直之、同千原範一に支給した分は、被告人両名の連帯負担とし、原審の証人箱根正彦、同石川正己に支給した分は、被告人山田善二郎の負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は、東京地方検察庁検事正代理検事田中万一被告人山田善二郎の弁護人岡田久恵、被告人西村幸晴の弁護人宇野要三郎、同竹内金太郎の各作成にかかる各控訴趣意書記載のとおりであり、検察官の控訴趣意に対する答弁は、右弁護人竹内金太郎作成名義の検事控訴に対する反駁要旨と題する書面記載のとおりであるから、これらをここに引用し、これに対して次のとおり判断する。

検察官の論旨について。

原判決が、被告人両名に対する本件公訴事実中、「被告人両名は共謀して、昭和二十六年八月二日東京都千代田区神田神保町一丁目二十一番地の一株式会社東京銀行神田支店に於て原田清の調達した金百万円を日本サービス株式会社の各株式引受数に応じた払込株金の全額であるとして預け入れさせ同銀行支店から株式払込金保管証明書の交付を受けさせた上直に同金員を払戻させて預合を為した」旨の商法第四百九十一条違反の点について、「ここにいわゆる『預合』とは会社の発起人(又は取締役以下同じ)が株金払込を仮装するために払込行為を取扱う金融機関と通謀してなすところの偽装行為を指称するものと解するのを相当とする。換言すれば本条所定の「預合」の罪が成立するには、発起人と払込を取扱う金融機関との間に通謀の存することが必要であるといわねばならない。」と判示した上、「かかる通謀の事実の認むべき証拠のない本件事案においては、被告人等が会社の取締役又は監査役として会社の資本金を個人的債務に流用した点に対する刑責を負うは格別商法第四百九十一条違反罪は成立しないものと断定せざるを得ない。」として無罪の言渡をしていることは、所論のとおりである。しかして、所論は、右は原判決が商法第四百九十一条の解釈適用を誤つたものであつて、その誤が判決に影響を及ぼすことが明らかであるとし、その理由として、先ず、商法第四百九十一条にいわゆる「預合」とは、資本充実の原則に背馳する行為であり、真実(株金の)払込を仮装するため、真実(株金の)払込がないのに、払込があつた如く払込株金を払込取扱者に預け入れたと仮装する行為をいうものであつて、その仮装行為が金融機関と通謀してなされたものであるか否かはその行為の成立にはなんら関係がないものである旨主張するにより、案ずるに、商法が第四百九十一条の規定を設けた目的が、株式会社について、いわゆる資本充実の原則を確保せんとする趣旨に出たものであること、及び「預合」という言葉が、昭和十三年の商法改正に際し、それまで経済界において使用されていた言葉を、そのまま法律上の用語として右規定に初めて採り入れたものであつて、立法当時その意義が明確にされていなかつたことはいずれも所論のとおりであるが、しかし、原判決も判示しているように、「預合」なる言葉が経済界において用いられて来た沿革や、前示の商法改正に際し、商法第四百九十一条が同法第百八十九条に対応して設けられたものであるという立法上の経緯などをそう合して考えるときは、商法第四百九十一条にいわゆる「預合」とは、株式会社の発起人(又は取締役以下同じ)が、株金払込を仮装するために、払込を取り扱う金融機関の役職員と通謀してなす偽装行為をいうものと解するのが相当であると考えられる。所論は、株金払込行為は売買のような典型的な有償双務の契約関係とは異り、単なる義務の一方的な履行行為であるから、同条にいわゆる「預合」には、必ずしも相手方のあることを要しない旨主張するけれども、右商法第四百九十一条がその後段において、「預合ニ応ジタル者亦同ジ」と規定している点と対照して考察するときは、同条所定の「預合」には、相手方のあることを前提とし、且つ相手方と通謀してなすことを要するものと解されるのであつて、かく解したからといつて、必ずしも所論のように、徒らに法文の辞句の末に拘泥して、法解釈の目的を忘れたものということはできないものといわなければならない。

次に所論は、「預合」なる語の意義内容が、世上既に一定のものとして確定されていない現在においては、商法第四百九十一条の解釈にあたり、目的論的に解する必要がある旨主張するが、なるほど、資本充実の原則を徹底的に確保しようとするならば、所論のように、金融機関との間における通謀の有無にかかわらず、いやしくも、実質的に払込を仮装する行為は、すべてこれを同条所定の「預合」に該当するものとして、処罰の対象とすべきであるとの論は、刑事政策的見地よりすれば、一応理由があるもののようにも考えられない訳ではないが、しかし、原判決も論じているように、従来の用例によるときは、一般に「預合」とは、相手方と通謀してなす偽装行為を汎称するものと解されるところであり、且つ、罪刑法定主義の建前から、刑罰法規の拡張解釈は、つとめてこれを避けるべきであることは論を待たないところであるから、若し、これをもすべて処罰の対象としようとするならばすべからく関係法規を改正する等の立法手段によるべきであつて、所論のように、法律上「預合」の意義がいまだ確定されていないからといつて、甚だしく従来の用例と異つた拡張解釈によつてこれを取締ろうとするが如きは、その当をえないものといわなければならない。

次に、所論は、法規は、立法者の意思を離れて、独自の存在生命を有するに至るものであり、社会に日々新たに生起する事象に対し、具体的妥当性を以て、不断に正しく解釈適用されて行かなければならないものであるから、本件事案の如き「みせ金」による株式会社の設立が、立法当時全然予想だにしえなかつたといいながら、全国的に行われ、名のみの群小会社が税金逃れのため、或は詐欺的行為を認識して濫立されている現在においては、立法の経緯を盾にとつて、商法第四百九十一条の適用を拒否するが如き解釈は、正鵠をえたものでない旨主張するのであつて、所論の前段は、もとよりその当をえたものと考えられるのであるが、しかし、刑罰法規の拡張解釈の避くべきことは、前述のとおりであり、もし、時勢の推移に伴い、かつて予想だにしなかつたような新たな事象が生起し、その取締の忽にできないような状態に立ち至つたときは、徒らに、法規の拡張解釈にのみよることなく、かつて昭和十三年の改正に際し、前示商法第百八十九条、第四百九十一条の規定を設けたときのように、よろしくこの点に関する法規の改正によつて、その目的の達成を図るべきものと考えられるのである。

次に所論は、会社成立前、募集設立に当つて、株式引受人が第一回の株金払込をなすのは、株式引受人たる地位において、発起人(団体)(或は設立中の会社以下同じ)に対して負担する株金払込義務の履行として払込をなすものであるから株金払込の相手は発起人(団体)であつて、払込を取り扱う金融機関は、発起人(団体)より払込取扱の委託を受けて、その代理人としてこれを取り扱うに過ぎないものであり、金融機関に対して右の払込取扱を委託し、或は代理権限を授与するのは、発起人(代表)である旨を主張し、この見解を前提として、被告人らの本件払込に関する所為は、一方において、株式引受人たる地位において払込をなすと同時に、他方において、発起人代表たる資格地位において払込取扱の委託をしたものであり、しかも、被告人らは、本件の百万円がいわゆる「みせ金」であることを知悉していたのであるから、その払込行為は、法律上無効であるばかりでなく、仮りに、原判示のように、商法第四百九十一条所定の「預合」が、相手方と通謀してなすことを要件とするものとしても、本件被告人らの所為は、右「預合」に該当するものである旨主張するのであるが、しかし、このような所論は、商法が株式会社における資本充実の原則を確保するため、株金の払込について、特に金融機関をしてその取扱をさせることとした立法の趣旨に照らし、到底首肯しえないところである。

以上要するに、商法第四百九十一条にいわゆる「預合」の意義についての各所論は、いずれもこれを採用しがたいところであつて、この点に関する原判決の解釈は正当であると考えられる。よつて、これを前提として、記録を調査し、前掲商法違反の点に関する公訴事実を検討するに、被告人両名が、原判示日本サービス株式会社の発起人として、真実株式引受人全員から株金の払込がなかつたのにかかわらず、設立登記を完了する方便として、他人から金借し、形式上株金の払込があつたように仮装して、前掲株式会社東京銀行神田支店に払い込み、株式払込金保管証明書の交付を受けた上、その設立登記手続を完了するや、直ちに該金員の払戻を受けて貸主に返済していることは、記録上これを認めえられるのであつて、従つて、被告人両名に株金払込を仮装する目的のあつたことは明らかであるけれども、被告人らと払込取扱機関たる前示銀行支店の役職員との間に通謀のあつた事実は、記録上これを肯認するの資料を発見することができないのであるから、原判決が、これを理由として右商法違反の公訴事実につき無罪の言渡をしたことは相当であつて、原判決には、この点について、所論のような判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の解釈適用を誤つた違法があるものということはできない。論旨は理由がない。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 中西要一 判事 山田要治 判事 石井謹吾)

検事田中万一の控訴趣意

原判決は無罪の部分につき法令の解釈適用に誤があつて、其の誤が判決に影響を及ぼすことが明らかである。原判決は、本件被告人両名に対する公訴事実中「被告人両名が共謀して、昭和二十六年八月二日、原田清に金百万円を調達させ、これを東京銀行神田支店に日本サービス株式会社の株金払込であるかのように装つて預け入れ、同日銀行支店から株金払込金保管証明書の交付を受けさせた上、直ちに同金員を払戻させ、以て預合をした」旨の商法第四百九十一条違反の点について「被告人両名が判示日本サービス株式会社の発起人として、真実株式引受人全員から株金の払込がなかつたのにかかわらず、設立登記を完了する方便として、他人から金借し形式上株金の払込があつたように仮装して前示銀行に払込み株式払込金保管証明書の交付を受けた上その設立登記手続を完了するや直ちに該金員の払戻を受けて貸主に返済していることは、判示第一事実認定に引用した前掲各証拠に照して明かなところである。従つて被告人両名に株金払込を仮装する目的のあつたことは明白である」といい、公訴事実と同一趣旨の事実を認定し乍ら「叙上認定のような行為は果して商法第四百九十一条所定の『預合』をなしたものということができるであろうか、元来『預合』という言葉は法律語としては用例が乏しく、その概念は甚だ曖昧であるが、その経済用語としての沿革や商法第四百九十一条が同法第百八十九条に対応して設けられたものであるという立法の経緯などに徴すれば、ここにいわゆる『預合』とは会社の発起人(又は取締役以下同じ)が株金払込を仮装するために払込行為を取扱う金融機関と通謀してなすところの偽装行為を指称するものと解するのを相当とする。換言すれば本条所定の『預合』の罪が成立するには発起人と払込を取扱う金融機関との間に通謀の存することが必要であるといわねばならない」と判示した上、「かかる通謀の事実の認むべき証拠のない本件事案に於ては、被告人等が会社の取締役又は監査役として会社の資本金を個人的債務に流用した点に対する刑責を負うは格別商法第四百九十一条違反罪は成立しないものと断定せざるを得ない」として無罪を言渡した。併し乍ら、本件右公訴事実は商法第四百九十一条に所謂預合の罪に該当するものと信ずるのであつて、以下に其の理由を述べる。

一、商法は、昭和十三年の改正に当り、商法第四百九十一条を設けて、一定の者が株金の払込を仮装する為預合を為したるときは処罰すべきことを規定した。(此の中「株金の」という字句は其の后の改正により削除)商法典中にあるとはいえ、この規定が一個の純然たる刑罰法規であることは明らかである。従来、商法学者や判例等によつてこの種の行為が所謂預合なる名の下に取上げられ論ぜられて来たが、孰れも単に民事責任の見地から問題にせられていたに止まり、刑罰法規としてのこの規定を直接論じ、其の罪の内容換言すれば其の犯罪の構成要件、就中此の規定の核心をなす客観的要件である預合を為すという行為の内容を明らかにしたものは、学説判例共に殆んどなかつたのである。商法第四百九十一条に所謂預合なる語は右の商法改正に際しそれ迄経済界に於て使用せられていた言葉が其の侭法律上の用語として右規定に初めて採り入れられたものであるが、立法当時、其の言葉の意義は何等明確にされなかつた。(松本烝治、私法論文集続編中「商法改正要綱解説」一九七頁、加納駿平、法学志林四〇巻八号「商法中改正法律の質疑応答、会社編中罰則に関する諸問」大森洪太、法曹会雑誌一五巻六号「商法中改正法律案の概要」等参照)。預合という言葉は、元来株金払込の場合だけに限らず、経済界に於て広く種々なる場合に、資産の存在を装うからくりを指称するとき俗語として使用せられ発達して来たものであつて、其の内容は各場合によつて異り、決して固定したものではなかつた。従つて、一般的に預合という場合其の言葉の意義は極めて漠然として居り、不明確であつて、立法当時其の意義が明確にされなかつたのは理由のないことではなかつたのである。預合なる語を一般的に定義づけるとするならば、せいぜい、預合とは資産の存在を装う一つのからくり行為即ち偽装行為を汎称するものである。ということができるのみである。(前掲加納駿平「質疑応答」並びに伊沢孝平「註解新会社法」六八六頁、奥野健一外四名「株式会社法釈義」五四三頁は、預合とは資産の存在を装う一つのからくりであつて、仮装せられた預金とでも言わるべきものである、という。尚河井信太郎「会社事件捜査概論」一四八頁以下参照)而して、商法がこの第四百九十一条の規定を設けた目的が株式会社について所謂資本充実の原則を確保せんとする趣旨に出たものであることは周知の通りである。所謂物的会社である株式会社、有限会社にあつては、社員は会社債権者に対し直接何等の責任を負担せず、之等に対しては専ら会社が其の財産を以てのみ責に任ずべきが故に、法律は会社と取引関係に立つべき一般第三者或いは将来会社の社員たる地位を譲受けんとする者等を保護する為、其の成立の当初は勿論其の存続中も、常に能うる限り、会社の資本に相当する現実の財産を保有せしめんと努めているのであつて、其の一努力として、商法は株式会社について第四百九十一条を規定すると共に、有限会社法も亦同法第七十九条の規定を設けるに至つたのである。この規定の目的に鑑み且つ前述の預合なる語の意義に照らし、商法第四百九十一条を解釈すれば、同条に所謂預合とは、資本充実の原則に背馳する行為であつて(株金の)払込を仮装する為真実(株金の)払込を仮装する為真実(株金の)払込がないのに、払込があつた如く払込株金を払込取扱者に預け入れたと仮装する行為をいう、ということができる。其の仮装行為が金融機関と通謀して為されたものであるか否かは其の行為の成立には何等関係がないというべきである。

飜つて、本件事案をみるに、「被告人山田善二郎は、昭和二十六年三月頃、有名百貨店の商品券等の月賦販売を営むことを目的とする資本金百万円の日本サービス株式会社の設立を企てたが、資金が容易に集らないところから、同被告人及び被告人西村幸晴他五名を発起人とし、これに金井森雄他三名を加え合計十一名を株式引受人とした上同人等の株金払込を仮装して、同会社の設立登記を完了しようと企て計理士である被告人西村幸晴にその手続を依頼したので、ここに被告人両名共謀の上被告人西村幸晴に於て、事実創立総会の招集及び株式引受人の出席もなかつたのに創立総会の手続を終えたものとして創立総会の議事録を作成して日本サービス株式会社が適法に設立されたように仮装し、同議事録を他の附属書類と共に登記申請書に添付して原田清に交付し、且つ同人に対し同会社設立登記完了までの間株金として金百万円を代つて払込み設立登記申請手続をしてもらいたいと依頼し、よつて同年八月二日同人に株式会社東京銀行神田支店に対し金百万円を前記各株式引受人の各引受株数に応じた払込株金の全額であるとして払込ませ」被告人両名が「株式会社の発起人として、真実株式引受人全員から株金の払込がなかつたのにかかわらず、設立登記を完了する方便として」右原田清から金百万円を金借し同人を通じ、「形式上株金の払込があつたように仮装して前示銀行に払込み株式払込金保管証明書の交付を受けた上その設立登記手続を完了するや直ちに該金員の払戻を受けて、貸主に返済し」たこと、並びに「被告人両名に株金払込を仮装する目的のあつたこと」は、原判決の認めるところである。被告人両名の右の行為は原判決に所謂設立登記を完了する方便の為の、即ち、単に銀行より株式払込金保管証明書を得る目的のみの為の行為であつて、銀行に預け入れたる百万円の金員は形式上株金の払込があつた如く仮装する為の単なる「みせ金」に過ぎないものであり、而して株式引受人中、福田徹、金井森雄及び山田なつの三名が単に引受人としての名義だけを貸した者であつて株金払込の意思はもとより株式引受の意思もなかつたこと、又発起人中、浅川明治、清水善正が現実に株金を払込む意思を全然有していなかつたこと、並びに発起人、引受人中、川合四郎、鈴木吉之助、高橋千代女を除く全員が株式払込金として現実には全然出捐をしていなかつたことは、夫々同人等に対する検察官作成の供述調書(記録第一八八、一八九丁、第二三二、二三三丁、第二二〇、二二一丁、第一二九丁乃至一三一丁、第一九九、二〇〇丁、第二二七、二二八丁、第四〇七丁乃至四一四丁、第四四〇丁乃至四四八丁)等によつて明らかである。之を要するに、被告人両名が前記の如く原田清をして銀行に対し金百万円を各株式引受人の各引受株数に応じた払込株金の金額であるとして払込ませた行為は、真実株金全額の払込がなかつたのに拘らず形式上払込があつた如く払込株金を払込取扱者たる銀行に預け入れたと仮装した偽装行為であつて、其の設立した会社の如きは当初から資本金がないと等しく、すなわち本件被告人等の行為は正に商法第四百九十一条に該当するものといわざるを得ない。(尚原判決は右の様な「みせ金」の払込は民法上払込として有効であると判示するのであるが其の点については後に述べる。)

二、然るに原判決は「元来『預合』という言葉は法律用語としては用例が乏しくその概念は甚だ曖昧であるが、その経済用語としての沿革や商法第四百九十一条が同法第百八十九条に対応して設けられたものであるという立法の経緯などに徴すれば」といい、第一に預合という言葉の経済用語としての沿革、第二に商法第四百九十一条が同法第百八十九条に対応して設けられたものであるという立法の経緯、この二つを主たる根拠として、商法第四百九十一条に所謂「『預合』とは会社の発起人(又は取締役以下同じ)が株金払込を仮装するために払込行為を取扱う金融機関と通謀してなすところの偽装行為を指称する」と解し、前記の如き本件被告人等の行為は商法第四百九十一条には該らないとしている。而して、原判決は原審公判立会検察官の所論に対し其の見解に組みし難き理由を三点挙げるのであるが、其の第一点として、「刑罰法規は濫りに拡張して解釈すべきでないことは罪刑法定主義の原則から論を俟たないところであるから、特段の事情の存しない限り罰則用語の概念を定めるについては従来普通に行はれていた用例に従うのが相当であるところ、さきにも一言したように『預合』なる語句はかの『談合』などの場合と同じく経済界の俗語ともいうべきものをそのまま法律用語に転用しているものであつて一般に『預合』といえば、相手方と通謀してなす偽装行為を汎称するものと考えられるからその一態様である株金払込を仮装する行為についても、相手方即ち払込を取扱う金融機関と通謀のあることを要すると解するのを相当とする。云々」と判示する。この判示のいわんとする趣旨を忖度するならば、第一に預合なる語の意味からして、商法第四百九十一条に所謂預合を為したといい得る為には単なる偽装行為を以てしては足らず、相手方と通謀して為されたものであることを必要とし、第二に立法の経緯からみて、商法第四百九十一条は同法第百八十九条に対応する規定であり、従つて右に所謂通謀の相手方は同法第百八十九条所定の払込を取扱う金融機関の当事者に限るとするものの如くである。

併し乍ら、預合なる語の意義については既に述べた通りであり、相手方と通謀してなす偽装行為と解すべき理由は何等存しない。尤も預合なる語は取引所に於て大正十一年取引所法令改正前「表面上は、売方は物件を、買方は代金を各提供して受け渡しを終了した如く装うも、事実これが授受をなさず、裏面において実質上売買取引の決済を繰り延べ、他日同一人が反対売買を為す時は差金の授受によつて決済する方法をいう。即ち、売方はその提供した物件を預り、これを担保として買方に代金を貸付け、買方はその提供した代金を預り、これを担保として売方に物件を貸付けると観念することにおいてこれを預合と称す」という意味を以て使用せられ、其の場合、当事者相互が意を通じ物件及び代金を互に「預け合う」という意味を有していた。(平凡社大百科事典、太田正孝編新経済辞典等参照)併し、其の場合預合なる語が右の様な意味で使用されていたのは売買という典型的な有償双務の契約に関していた為であり、其所に於て使用せられていた意味を其の侭単なる義務の一方的な履行行為である株金払込行為の場合に持ち込み得ないことは、払込を仮装する為発起人と金融機関の職員とが通謀して金融機関に於て唯単に株式払込金保管証明書のみを発行した場合を想定すれば明らかである。預合なる語は種々なる場合に使用せられ、其の言葉の一般的な総称としては単純に偽装行為を指すとしかいい得ないのである。或いは、預合なる語の「合」ということより、預合なる行為は当然に相手方のある、相手方と通謀してなさるる行為でなければならないというのであれば、それは法解釈の目的を忘れて徒らに法文の辞句の末に拘泥した議論といわなければならない。従来、刑罰法規の解釈に当つては、罰刑法定主義の原則上、一般に拡張解釈は正しい限度内において許されるが類推適用は許されないとされ来つた。原判決のいう如く固より刑罰法規は濫りに拡張して解釈さるべきではない。刑罰を科し得るのは刑罰法規の明文の根拠のあるときに限る。而して其の明文の根拠とは、法文の語句の文法的意味が其の侭当てはまるときのみならず、なお目的論的に考えたとき其の法規が適用されなければならないと考えられる場合をも含むのである。この故に、他人の文書を塗抹し或いは隠匿する行為も文書の毀棄といわれ(刑法第二五九条)、又他人の飲食器に放尿し或いは他人の飼養する魚を其の養魚池外に流失せしめる行為の如きも器物の損壊或いは傷害であると解されることが正当とされているのである。(刑法第二六一条)、法規の解釈に当つて重要なことは、法文の字句の単なる解釈ではなく、其の規定の目的論的解釈であるといわなければならない。いわんや、預合なる語について、其の意義内容が世上既に明確に一定のものとして確定せられているならば格別、前述の如く其の義務が甚だ不明確である以上、商法第四百九十一条の解釈に当つては目的論的解釈は一層重要且つ必要であるといえるのである。而して、本件被告人等の行為が其の社会的並びに法律的価値に於て金融機関と通謀して為された場合と何等異ならないことは既に述べたところによつて明らかであり、商法第四百九十一条を其の規定の目的に従つて解釈すれば同条は本件被告人等の行為の如きものを当然に包含するものと解釈せざるを得ないのであつて、それを以て刑罰法規を濫りに拡張解釈したと為し得ないことは明白である。なお本件事案を仔細に検討するときは、後に述べる如く、其の法律上の形式に於て通謀的要素をも存するのである。

次に、商法第四百九十一条及び同法第百八十九条が共に昭和十三年の商法改正により孰れも従来の所謂預合の弊風を防止する目的を以て新設された規定であつて、其の意味に於て、右両法条が相対応する規定であることは明らかである。併しながら、そのことから直ちに商法第四百九十一条によつて刑事上処罰される行為は同法第百八十九条によつて所定の金融機関が民事上の責任を負担する範囲内の行為に限局されるといい得ないことは勿論である。一は民事上の考慮に基いて一定の者に対し一定の行為について民事の責任を定めたものであり、他は刑事上の見地からして一定の者に対し一定の行為につき刑罰の制裁を科したものであつて、其の規定の形式内容或いは構成要件が同一でない限り、例えば、民法並びに刑法に於て孰れも詐欺という同一の用語が使用せられていても其の内容が異る如く、一部の商法学者によつて商法第百八十九条第二項に該当する行為のみが仮令通常預合なる名の下に呼ばれていても、其の預合なる概念を其の侭刑罰法規である商法四百九十一条に持ち込み得ないことは明白である。昭和十三年の商法改正当時、預合として立法者が主として予想していた行為が同法第百八十九条に該当する如き行為であつたことは否定し得ない。併し、それは、当時其の様な形態の預合のみが世上で問題になつていた為に、「主として」予想せられていたというに止まるのである。このことは、当時の立法関与者の中、「株金払込を仮装する為預合がなされる場合としては種々なる場合が考えられるのであるが」といい、商法第百八十九条第二項に該当する様な行為を単に其の一事例として挙げている者があることからして明らかである(前掲松本烝治、加納駿平等の論述参照、尚、前掲伊沢六八六頁、奥野健一外四名五四三頁も、金融機関と結託して払込を仮装することは預合の一事例である。という)。仮に立法当時、商法第四百九十一条に所謂預合として同法第百八十九条第二項に該当する行為のみが予想せられていたとしても、法規は立法者の意思を離れて独自の存在、生命を有するに至るのであつて、右第四百九十一条が制定された後の今日も尚、其の立法当時予想せられていた行為のみを第四百九十一条に所謂預合なりと解すべき何等の理由もなければ、又そう解すべき、文理上の根拠も何等存しない。法規は社会に日々新たに生起する事象に対し具体的妥当性を以て不断に正しく解釈適用されて行かなければならないのであつて、かつての判例上に於ける電気窃盗の問題の如きは其の一適例であるといえる。現在、本件事案の如き「みせ金」による株式会社の設立が、立法当時全然予想だにし得なかつたとは云いながら全国的に行われ、名のみの群小会社が税金逃れの為或いは詐欺的行為を認識して濫立されているとき、立法の経緯を盾にとつて商法第四百九十一条の適用を拒否するが如き解釈は正鵠を得たものとは云われない。のみならず、原判決の如き見解をとるならば、出資の払込について金融機関の関与を全然必要としない有限会社の場合について有限会社法第七十九条の規定があることを全く説明し得ないこととなるのであつて、この点からしても原判決の解釈は失当であるといわざるを得ない。

三、原判決は、原審公判立会検察官の所論に対し、第二点として、「ひとしく正規の株金の払込がないのに、あつたように仮装して会社設立の目的を達成しようとしているとはいえ、仔細に検討すると金融機関と通謀して払込を仮装する場合と、本件の場合のように金融機関とは通謀せず、形式的には一応株金の払込をしている場合とは、法律的にみてその間自ら差異の存することを知るのである。即ち前者にあつては全然株金の払込はないのにかかわらず、相手方と通謀して払込のあつたことを仮装するのであるから、その行為は本来法律上無効であり(民法第九十四条第一項)従つて商法第百八十九条の必要なる所以でもあるが、後者の場合にあつては払込人(即ち発起人や締取役など)の意思はいかにあつたとしても、形式的には株金の払込がなされて居り、これを受領した金融機関は払込人の(払込は仮装であるという)真意は知らないのであるから、その払込は民法第九十三条の趣旨に照し法律上有効であるといわねばならない。従つてその金員は「みせ金」であるという払込人の意思にかかわりなく、払込と同時に会社の資本金として確定し形式的な法律論からいえば、会社の資本はここに充実せられたものといいうるのであつて、かの金融機関と通謀して全然株金の払込をしないのに、その払込があつたように仮装する場合とは法律的にみて著しくその効果を異にしているといわねばならないから、両者は必ずしも同一に断じなければならないものではないのである。」と判示している。この判示の意味するところは二つあると考えられる。即ち、第一に、本件事案の如き場合には、形式的な法律論からすれば、株金の払込はあつたのであり、従つて払込を仮装した行為とはいい得ないというのであり、第二に、法律上株金の払込がないといい得るのは金融機関との間に通謀のある場合に限り、それ故に商法第百八十九条第二項の規定が設けられているのであつて、逆にいえば、同条に該当する如き行為のみが同法第四百九十一条に所謂預合なる行為に該るのであると、というのであろう。

併し乍ら、本件事案の如き場合、其の所謂「みせ金」の銀行に対する払込は形式的な法律論からしても法律上払込行為として無効であるといわなければならない。会社成立前、募集設立に当つて株式引受人が第一回の株金払込を為すのは、株式引受人たる地位に於て発起人(団体)或いは設立中の会社に対して負担する、株金払込義務の履行として払込を為すのである(現在、学説上、設立中の会社なる概念を認め発起人を其の設立中の会社の機関とする見解が有力である。併し、ここでの問題については、設立中の会社なる概念を認めても認めなくても差異はない。)従つて、株金払込の相手は発起人(団体)或いは設立中の会社であつて、払込を取扱う金融機関は発起人(団体)或いは設立中の会社より払込取扱の委託を受けて之を取扱うに過ぎないのである。この故に、金融機関は、払込取扱に際し委託者より手数料を受けて、株式引受人の払込む払込金を自己に対する単なる預金としてではなく払込株金として受領し且つ保管するのである。金融機関と発起人(団体)或いは設立中の会社との間には委託契約関係が成立し、且つ金融機関は其の委託を受けた事務を処理する範囲内に於て当然に発起人(団体)或いは設立中の会社より代理権限を授与されることとなる(泰亘、「預合防止、名義利用株主の責任規定」、司法協会雑誌一八巻一〇号三三頁、一一号二三頁、参照)。即ち、金融機関は発起人(団体)或いは設立中の会社の代理人として株式引受人の為す株金払込を受領するのである。而して、金融機関に対して斯くの如き株金払込取扱を委託し或いは代理権限を授与するのは発起人(代表)或いは設立中の会社なる概念を認むれば其の機関としての発起人である。以上を前提として本件をみるに、被告人両名が、他人より金借した「みせ金」金百万円を、原田清を通じ、被告人外十名の株式引受人の各引受株数に応じた払込株金の全額であるとして、之を東京銀行神田支店に払込んだことは原判決の認定するところである。この場合、被告人両名は株式引受人たる地位に於て右の行為を為しているのである。株金の払込は代理人によつて為すも一向差支えない訳であり、被告人が他の株式引受人を代理し且つ更に原田清を代理人として株金を払込んだ形式自体は何等咎めらるべきことではない。併し乍ら、右払込に際し、被告人両名、就中山田善二郎が原田清を通じ発起人代表として同時に東京銀行神田支店に対し払込取扱を委託していることを注意しなければならない。原田清に対する司法警察員作成の供述調書(記録第一六〇丁乃至第一七五丁)、同検察官作成の供述調書(記録第一七六丁乃至一八三丁)、及び矢川三枝子に対する司法警察員作成の供述調書(記録第二〇一丁乃至第二〇八丁)、同検察官作成の供述調書(記録第二〇九丁乃至第二一三丁)によれば、右払込に際し、原田清、矢川三枝子の両名に於て東京銀行神田支店に対し、被告人西村を通じて受領せる株主名簿及び定款の写と共に、銀行宛発起人代表山田善二郎名義の株金払込依頼書を提出し且つ手数料金二千円を支払つていることが明らかである。斯くの如き払込取扱の委託を為さざる限り、銀行が払込株金として右金員を受領し且つ株式払込金保管証明書を発行交付しないことは明白である。この行為は被告人山田が発起人代表たる資格、地位に於て被告人西村と共謀して原田清を通じ東京銀行神田支店に払込取扱を委託したものであり、従つて、被告人両名、就中山田善二郎は、一面、発起人(団体)或いは設立中の会社を代表し原田清を通じ、払込取扱を銀行に委託し銀行をして払込株金を受領する代理人たらしむると共に、同時に、相対立する当事者たる株式引受人及び其の代理人として原田清を通じ金百万円を払込株金として銀行に払込み銀行をして之を受領せしめたものである、といわざるを得ない。即ち、被告人山田善二郎は一人であるが、本件事案を法律的に考察すれば、同被告人が相対立する二個の法律上の人格として同時に行為していることが明らかである。而して、被告人両名に於て前記百万円の金員を単なる「みせ金」として銀行に払込んだことは明らかであり従つて、被告人等は、引受人側の立場に立つて右金百万円を「みせ金」として銀行に払込むと同時に、他面発起人側の立場の者としてかかる「みせ金」が銀行に払込まれることを知悉しながらかかる金を受領することを銀行に委託し且つ銀行を代理人としてこの金を受領せしめたこととなるのである。斯くの如き払込行為をも尚法律上有効なる行為であると称し得るであろうか。商法が資本充実の原則を維持せんとして第二百条第二項等の規定を設け、或いは学説、判例上、株金の払込は金銭を以て現実になされることを要し、手形その他の代物を以て之をなすことを得ないとされている等の趣旨に鑑み、斯くの如き払込は払込として法律上無効であると解さなければならないものと思われる。原判決は、本件事案の如き場合にあつては、『払込人(即ち発起人や取締役など)の意思はいかにあつたとしても、形式的には株金の払込がなされて居り、これを受領した金融機関は払込人の(払込は仮装であるという)真意は知らないのであるから、その払込は民法第九十三条の趣旨に照し法律上有効であるといわねばならない。』と判示するも、之は、払込なる行為が株式引受人と発起人(団体)或いは設立中の会社との間の払込義務の履行として為されるものであつて、金融機関が発起人側の代理人たるに過ぎないことを看過したものである。勿論、代理行為については、其の意思表示の瑕疵は先ず代理人につき其の事実の有無を決すべきことは民法第百一条第一項の明定するところであるが、同条第二項によれば「特定の法律行為を為すことを委託せられたる場合に於て代理人が本人の指図に従い其行為を為したるときは本人は其自ら知りたる事情に付代理人の不知を主張することを得ず其過失に因りて知らざりし事情に付き亦同じ」とあり、この趣旨を類推し、更に、同法第九十三条但書の規定を解釈すれば、右但書に所謂相手方とは代理人を通じ之を為したるときは其の本人をも含むと解せざるを得ない。(昭和十二年十一月十六日大審院第五民事部判決((大審院判例集一六巻二二号一六二四頁))の原判決破棄差戻理由中の第二点はかかる解釈の余地あることを肯定する。)かくて、本件事案に於ける株金の払込は、之を受領した東京銀行神田支店に於て株式引受人の「払込は仮装であるという」真意を知らずとするも、右銀行を代理人とする本人即ち発起人(団体)或いは設立中の会社従つて結局其の代表者たる被告人山田に於て株式引受人の真意を知悉している以上、民法第九十三条但書の規定の趣旨に照らし無効であるといわなければならない。斯く解せざれば、本件の如き違法行為はもとより脱法行為を為さんとする相対立する(例えば契約の)当事者は、中間に善意の代理人を立てることによつて、容易に其の目的を達成し得ることとなるであろう。之を要するに、本件事案の如き場合、所謂「みせ金」の払込は株金払込として法律上無効であり、形式的な法律論からしても、会社の資本は何等充実せられていないのであり、従つて、「法律上株金の払込がないといい得るのは金融機関との間に通謀のある場合に限り、それ故に商法第百八十九条第二項の規定が設けられているのであつて、逆にいえば、同条に該当する如き行為のみが同法第四百九十一条に所謂預合なる行為に該るのである」といい得ないことも明白である。原判決が「一般に『預合』といえば、相手方と通謀してなす偽装行為を汎称するものと考えられるから、その一態様である株金払込を仮装する行為についても、相手方即ち払込を取扱う金融機関と通謀のあることを要すると解するのを相当とする。」としていることは既に述べた。併し、株金払込の相手方が発起人(団体)或いは設立中の会社であることは右に述べたところによつて明らかである。従つて仮に、原判決の如く預合なるものが相手方と通謀して為す偽装行為の汎称であるとしても、其の通謀の相手方はむしろ発起人(代表)といわざるを得ないのである。唯、株式会社の募集設立に当つては、商法上金融機関が必ず払込取扱者即ち払込を受くべき者の代理人として関与する為、払込を仮装する預合は株式引受人と発起人(代表)との間に成立する外、株式引受人と金融機関との間にも成立することとなるのである。而して、株式引受人と発起人(代表)との間に預合が成立する場合は多く本件事案の如く同一人が双方の資格を兼ねることとなるのであるが、然らざる場合も存する。例えば発起人に非ざる単なる株式引受人(甲)が、他の株式引受人全員が現実に夫々自己の金員を出捐して株金を払込んでいるのに拘らず発起人(代表)(乙)と通謀して予め払込金を直ちに返還して貰う約束の下に、右引受人(甲)に於て金融業者より金を借受けた上其の金を自己が引受けた引受株式の払込株金として銀行に払込み、会社設立後発起人(乙)に於て銀行より其の払込金を引出し之を右の引受人(甲)に返還するが如き場合も十分予想せられるのである。この場合、右引受人(甲)が処罰されないことは、商法第四百九十一条が犯罪の主体を一定のものに限局していることの結果に過ぎず同条に所謂預合が成立するか否かの問題とは全然別個の問題である。而して、この場合、右発起人(乙)は同条後段に所謂預合に応じたる者として処罰さるべきである。飜つて、本件事案をみると、仮に原判決の如く預合なるものが相手方と通謀して為す偽装行為の汎称であるとしても、既述の如く本件被告人両者就中山田善二郎は株式引受人たると同時に発起人(代表)たる地位を兼ね、一面株式引受人側の立場に立ちて本件金百万円を「みせ金」として銀行に払込むと同時に、他面発起人側の立場の者としてかかる「みせ金」が銀行に払込まれるのを知悉しながら其の金を受領することを銀行に委託し且つ銀行を代理人として之を受領せしめているのであつて、其の行為は法律上正に『預合』的行為であるといわざるを得ないのである。この意味に於ても亦、本件被告人等の行為が商法第四百九十一条に該当することは明らかである。

四、更に、原判決は、原審公判立会検察官の所論に対し、第三点として「本件事案のような場合に於ては、払込人の意思にかかわりなく、払込と同時に株金は会社の資本金となるものであるから、もし取締役その他会社の機関が、当初からの企図に従つて、その払込金(即ち資本金)を直ちに引出し、自己の個人的債務の返済に利用したならばそれは即ち会社財産の領得行為として業務上横領又は背任の刑責を負わねばならないこと明かである。」と判示し本件被告人等の行為を商法第四百九十一条に所謂預合として処罰せずとも刑事政策上何等の不都合を生じないという。併し、この判示は、勿論、所謂「みせ金」の払込が株金の払込として法律上有効であることを前提とするものであつて、前述の如く、其の「みせ金」の払込は払込として法律上無効であると解せざるを得ない以上、原判決の如く結論し得られないことは明らかである。のみならず、仮に、本件の如き所謂「みせ金」の払込が株金の払込として法律上有効であるとしても、取締役その他会社の機関が当初からの企図に従つてその払込金を銀行より直ちに引き出し自己の個人的債務の返済に利用する行為を、直ちに刑法上の横領罪或いは背任罪に問擬し得るや否やは大いに疑問であるといわなければならない。即ち、之を本件事案についてみると、本件被告人等が設立せんとし又設立した会社なるものは全く有名無実であつて、実質上被告人等個人の左右し得る会社といわるべきものである。而も、銀行に払込まれた本件金百万円の「みせ金」は被告人等が自己に於て金借調達したものであつて、又それは当初から当然直ちに引出されて調達先に返済されることを予想して銀行に払込まれたものである。従つて、この「みせ金」を本件被告人等が当初の企図通り直ちに銀行より引出しその調達先に返済したことは形式上会社財産の領得行為となるとしても、その場合刑法上会社財産を不法に領得したといい、或いは被告人等に不法領得の意思があつたと認め得るか、全く疑問なきを得ないのである。

五、以上要するに本件被告人両名の行為が商法第四百九十一条に所謂預合なる行為に該当することは明白である。本件と全く同様なる事案に対し右第四百九十一条違反の罪の成立を認めた昭和二十五年七月十日の名古屋地方裁判所及び同二十七年二月七日の同裁判所刑事第二合議部の有罪判決の趣旨とするところも亦以上述べた点にあると思われる。然るに原判決は法令の解釈を誤り本件被告人等の行為を以て商法第四百九十一条に所謂預合なる行為に該当しないとし、同条の規定を適用しなかつたものであり、法令の適用に誤があつて、且つ其の誤が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れないと信ずる。

(その他の控訴趣意省略。)

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